COLUMN

都農ワイン

宮崎空港に到着した。生憎の空模様だったが、空港から外にでるとヤシの木が並び、南国感が溢れている。 今回お邪魔した都農ワインは、宮崎空港から車で北に1時間弱程走らせた先の都農町にある。東に日向灘、西に尾鈴連山がある場所だ。西高東低の牧内台地にあるワイナリーは標高150-200mに位置し、4㎞先にあるという海も眺められる絶景ポイントでもある。ワイナリーで働くサーファー達が、海の状態を常にチェックしているそうで、時々いてもたってもいられず、お休みを取って海に繰り出してしまうほど。サーファーの聖地でもあるようだ。

そしてインタビューのお相手は、1994年の都農ワイン設立時点から、社長と二人三脚で苦楽を共にしてきた赤尾さん。ポニーテールにまとめられた髪と力強いまなざしがイタリア人男性のようで、色気が漂う御方です(ミーハーで申し訳ありません。苦笑)。

都農ワイナリー入り口。
▲ 都農ワイナリー入り口。アットホームな雰囲気が漂う。
口調は穏やかで、時折クスっと静かに笑う赤尾さん。このただならぬ雰囲気にやられてしまう。
▲ 口調は穏やかで、時折クスっと静かに笑う赤尾さん。このただならぬ雰囲気にやられてしまう。

ワインは地酒であるべき

都農はワイン産地として決して恵まれているとは言えない。雨が多く、台風が頻発するこの地域は、「日本一不適地」と赤尾さんが評するほど、ブドウ栽培に不向きな土地だ。そんな場所であっても、海外メディアで高評価を受け、国内外の品評会でも数多くの賞を受賞している。何か秘密がありそうだ。

永友百二~ひとりの想いがきっかけに

そもそも、なぜ、この地でワインが造られるようになったのか?
戦後間もない1953年前後まで時は遡る。尾鈴山から流れる名貫川付近には、ゴロタ石という丸い石が広がり、その上に火山灰土壌が堆積した畑が広がる。地が浅く水漏れが頻繁に起こる場所で稲作が行われていたこともあり、水を巡る争いも多かった。そんな中、永友百二という一人の農家が争いを抑えるべく、稲作に頼らない農業を目指し、19歳で梨の栽培を始めた。雨の多い都農で果樹栽培は不可能と言われ、「田んぼに木を植えるなんて」と周囲から非難もあったそうだが、研鑽を積み、全国梨品評会で一等を受賞するほどの実績を上げる。そして、終戦後はブドウ栽培にも着手。当時の文献に「ぶどう酒仕込み」の文字もあり、ワインも造られていたようだ。