COLUMN

機山洋酒工業

「こだわりってね、僕はないんですよ。若い頃なんか取材でこだわりはなんですかなんて聞かれると、頭にきて、帰れ、とか言っちゃったりしてね。」

率直にいう。私は困った。

日本ワインへの造詣が深くないことを半ばコンプレックス気味に自負している筆者にとって、生産者の方々の「こだわり」は、コラムを書く上で、最も容易かつ明解かつ差別化しやすく、深掘りしやすい大事な切り口である。だから、私は洗練されていようが歪であろうが、「こだわり」を要請してきた。

「こだわりって、元々の意味で言うと「とらわれている」ような否定的な意味だと思うのですが、僕には、どうしてもこうじゃないといけないってものがないんですよ。例えば「甲州に拘っているじゃないか」と言われることもあるのですが、それは拘っているわけではありません。(気候土壌への適性だけでなく、歴史的な背景など)あらゆる意味合いで、甲州より優れた品種があるのなら、それは変えていきますよ。今、それがないというだけです。」

「スマート」というと軽いだろうか、「理知的」というと形式ばって響くだろうか、軽快に慎重に、外交的に内省的に、朗らかに強かに。 その軽微なアンビバテントは、彼が作るワインにも通底したものがあるような気がしている。安いのに旨い、という話ではない。工業的な緻密性で、クラフト的なテイを有しているという意味においてだ。

山梨県甲州市塩山。日本三大急流にも数えられる富士川へと流れ込む笛吹川の脇、機山洋酒工業は、北東から南西に太平洋へ向かうこの一級河川によって形成された河岸段丘の上に位置するワイナリーだ。

機山洋酒工業の何から何までをお二人で手掛ける土屋ご夫妻。同じ大学を出られて、国税庁醸造試験所でもご一緒だったそうです

「(先々代は)元々、石炭業を営んでいました。というのも、山梨においては養蚕が盛んな地域で製糸工業が重要な産業でした。絹糸を手繰る際に高温の水が必要なのですが、その熱源となったのが石炭だったのです。」

石炭業からワイン製造への転換の契機となったのは、昭和5年の世界恐慌。世界経済が急激に冷え込んだことによって、輸出産業としての比重が大きかった製糸工業は衰退し、石炭の需要も急落した。

「そういった状況で、養蚕に代わる産業として注目を集めたのがワイン造りでした。」

先々代もその産業の遷移の流れに乗り、ワイン造りを始めた。当時3,000もの零細生産者が生まれるほどに勃興したワイン産業だが、その殆どが今は見る影もない。その中で生き残り、現在まで引き継がれているのが機山洋酒工業だ。

三代目の土屋幸三さんは、メーカーの研究員としての6年のキャリアを経て、1994年の8月に会社を辞め、ワイン造りの家業を継いだ。

「元々は街の電気屋さんになりたかったので、(大学は)電気とか通信の学科に行こうと思っていました。ですが、父にその話をすると、「お前、後継ぐんだろ。」なんて言われてしまいまして。
「ダメ」っていうならしょうがないなぁ、なんて思いながら調べたら、その当時は、電気通信の学科と醗酵学科の二次試験の科目が同じだったのです。」

1980年代のバイオテクノロジー・ブーム。石油・石炭を燃料・原料とした大量消費と爆発的な成長から、微生物や遺伝子組み替えを媒介した、クリーンで省エネルギーな、より緻密な科学によって興される未来が描かれた時代だ。「アマチュア無線免許」まで取得していた電子工作青年だったという土屋さんだが、その時代を象徴すると言える大阪大学醗酵学科で学問を修め、バイオケミカル事業を手がける企業へ就職した。

「ワイナリーを継ぐまで、6年間会社員として働いていたのですが、そのうちの3年間は出向という形で、国税庁醸造試験所で研究をしていました。そこで嫁さん(由香里さん)とも出会ったのですが。そこには規模を問わず、色々な酒造メーカーの優秀な研究者が集まっていて、雰囲気としては大学の研究室のような空間が築かれていました。研究室にお酒を持ち込んで仲間と飲んだり、自分たちの研究も当時としてはハイレベルの内容で。あの時の経験は、今の僕のベースとなっています。」

県道を隔ててワイナリーと隣接した自社畑には、垣根仕立てのカベルネ・ソーヴィニョンやメルロ、シャルドネといった欧州系品種が植えられている。
葡萄の上には、「レインカット」と呼ばれる、雨よけのビニールを張り巡らせる鉄骨が組み上げられている。